「開く」という言葉から、あなたは何を連想しますか?
本のページを開く、窓を開けて空気を入れ替える、あるいは新しい可能性を開く……。「開く」という行為には、常にそこから何かが始まり、内側と外側が繋がっていくようなポジティブな響きがあります。
心のあり方においても、この「開く」という感覚は非常に重要です。最近、私はマインドフルネス瞑想、そして日々行っている高齢者の方々への運動指導を通じて、この「心を開く」ということの真意について深く考えるようになりました。
メッタ瞑想は「開く」ための練習
仏教の瞑想法の一つに「メッタ(慈悲)瞑想」というものがあります。「私が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、自分や他者の幸せを願う瞑想です。
一見すると、単に「願いを唱える」ことのように思えるかもしれません。しかし、その本質は「心を開く」ための練習にあります。私たちは日々の生活の中で、傷つくことを恐れたり、誰かを評価したりすることで、知らず知らずのうちに心のシャッターを固く閉ざしてしまいがちです。メッタ瞑想は、その強張った心の境界線を少しずつ溶かし、外の世界や他者に対して心を開放していく作業なのです。
よく瞑想指導の現場では、「瞑想とは、開く練習である」と言われます。それは、今この瞬間に起きている感情や感覚を、否定も肯定もせず、ただそのままに「受け入れる(=心を開く)」ことだからです。
「私」に囚われると、心は閉じていく
私自身、高齢者の方々に運動指導をさせていただく際、この「開いている」か「閉じている」かの違いを肌で感じることがあります。
例えば、指導中に強い緊張を感じているとき。そういう時の私の心は、完全に「閉じて」います。なぜなら、意識の矢印がすべて「自分」に向いているからです。
「いいレッスンをしよう」
「失敗してはいけない」
「参加者の方に満足してもらいたい」
一見するとプロ意識のように聞こえますが、その実、考えているのは「立派に見られたい自分」や「評価されたい自分」のことばかり。つまり「私」という狭い殻に閉じこもっている状態なのです。
「私」のことばかり考えているとき、不思議と周囲の状況が見えなくなります。参加者一人ひとりの顔色の変化や、その場の空気感に気づけなくなってしまうのです。これが、心が閉じているときの不自由さです。
開くことで生まれる「本当の優しさ」
一方で、ふとした瞬間にその「私」への執着が消え、心がふわりと開く時があります。
「いい指導をしよう」というエゴを手放し、ただ目の前にいる方々の存在そのものに意識を向けたとき。そこには心地よい一体感が生まれ、私自身の体からも余計な力が抜けていきます。
この「開いている」状態になると、結果として、自分でも驚くほど自然に「優しく」なれることに気づきました。それは、意識して作り出す優しさではなく、壁がなくなったことで内側から溢れ出してくるような感覚です。
心が閉じているときの優しさは、どこか「優しくしている自分」に酔っているような、作為的なものが混じります。しかし、心が全方位に開いているとき、そこには「私」と「あなた」を隔てる壁がありません。相手の喜びが自分の喜びになり、相手の痛みが自分のことのように感じられる。その境地において、優しさはごく自然な、当たり前の反応になるのです。
おわりに
「心を開く」ことは、決して無防備になることや、自分をなくすことではありません。むしろ、「私」という小さな枠組みから解放され、より大きな世界と繋がることです。
緊張を感じたとき、余裕がなくなったときこそ、一度深呼吸をして自分に問いかけてみてください。
「今、私は自分(私)のことばかり考えていないだろうか?」と。
心を少しだけ「開く」こと。その小さな練習の積み重ねが、自分自身を、そして周囲の人たちを温かく包み込む「優しさ」の源泉になるのだと、私は信じています。


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